私の大学時代の先輩(男性)が、すっごく珍しくFacebookに投稿してたので見てみました。そこには、「昨年(2002年)、娘さん(当時3歳)が『障害児』と診断を受けた」という文章と、その思いが綴られていました。

その文章を読んで、これはFacebookで限られた人だけが読むだけではもったいないと思い、多くの人に読んで頂きたいと思いました。

自分の3人の子ども達は「障害児」とは診断されたことがない。だけど、どれだけ感謝を忘れ、不満や文句が心の中にあったことだろうと思い、恥ずかしく思いました。

子ども達の学校や子どもの小さな社会でさえ弱いものをいじめる、その変えがたい悲惨さや過酷な現実は、大人であればきっと誰もが思い当たるでしょう。

大学時代の先輩は、その絶望的な暗黒のうちにとどまらなかった。彼を変えたものとは、いったい何だったのでしょうか?

以下は以前、その先輩が県の「心の輪」に投稿した「障害者」に対する思いが書かれた文章です。

出典Photo:牧師の妻

「尊い存在」

「もし障害児がうまれたら、殺してしまおう」小学5年生の時、固く決意した。

私は沖縄で生まれ育ったが、小学校3年生の時、大阪の同和推進校に転校した。部落、朝鮮、障害者などへの様々な差別に取り組む学校だ。

クラスにS君という知的障害児がいた。彼はポチャッとした体格で、虫や花の好きな心の優しい子供だった。普段、S君は仲良し学級に参加し、体育や図画工作の時は普通クラスに参加した。

「このクラスは障害を持っているS君を温かく受け入れる良いクラス。」そう評価されていた。しかし、事実は違った。S君はいじめを受けていた。

例えばS君が鼻くそをほじっていると僕らは面白がってそれを食べるように強要した。また、何か腹の立つことがあるとS君を殴った。殴られたS君は、男子の僕らに刃向かうことが出来ないので、女子に殴りかかった。騒ぎになり、先生が駆けつけるとみんなは口を揃えて言った。「S君が急に暴れ出したんです。」もちろん、S君は弁解できない。先生はS君を叱った。

ある日、図画工作の時間に僕らはS君のお腹をピンセットでつねった。S君は大声を出して怒った。そしてバケツに水を入れ、僕らにかけようとした。でも、みんなでS君を睨み付けた。怯えたS君は水の入ったバケツを自分の頭の上に持ち上げ、水をかぶり、頭の上からつま先まで水浸しになった。そんな騒ぎになってようやく先生が来る。事情を聞く。悪いのはS君だとみな口を揃える。S君が怒られる。この繰り返しだった。

その学校は、同和推進校。差別のことを知らないわけではなく、むしろ他の学校より遙かにそのことを真摯に捉え、差別を根絶しようと取り組んでいる所である。

しかし、そこにあったのは「弱者による、より弱者へのいじめ」だった。この学校でこのような状況なら、他はどんなに悲惨か。社会はどんなに過酷か。こうして私は「もし障害児がうまれたら、殺してしまおう。その子のために」そう決意した。

そんな私に変化が訪れたのは、二つの出会いによる。

一つはある一人のクリスチャン。その方のお子さんは、幼いときイスから落ちてしまい、頭を強打した。そしてそれ以後、目が見えなくなり、医者から一生話すことも出来ないだろうと宣告されてしまった。

私ならば「こんな世である。生きていくことは辛いに違いない。この子を殺して自分も死のう」そう考えたと思う。否、そうしたであろう。

ところが、その方はこう言った。「私はこれから、この子の目となり、口となって歩んでいきます。」まるで雷に打たれたような衝撃を受けた。

こんな生き方が、こんな選択があるのかと思わされた。障害を持ったその子を一生かけて愛し、守っていこうというのだ。その親の愛は、氷のように冷たい私の心を溶かした。

もう一つの出会いは一つの詩。次のようにあった。

「天国の特別の子ども」 エドナ・マシミラ/訳・大江 裕子

天国がひらかれました。地球から、はるか遠くで……。

『次の赤ちゃん誕生の時間ですよ』と天においでになる神様に向かって、天使たちが言いました。

この子は、特別の赤ちゃんで、たくさんの愛情が必要でしょう。この子の成長は、とてもゆっくりに見えるかも知れません。もしかして、一人前になれないかも知れません。だから、この子は、下界であう人々に特に気を付けてもらわなければならないのです。

もしかして、この子の言うことは、なかなかわかってもらえないかも知れません。何かやっても、うまく行かないかも知れません。ですから私達はこの子がどこに生まれるのか注意深く選ばなければならないのです。

この子の生涯が幸せなものとなるように、どうぞ神様、この子のために、すばらしい両親を探してあげて下さい。神様のために特別の任務を引き受けてくれるような両親を!

その二人は、すぐには気が付かないかも知れません。彼ら二人が自分たちのために求められている特別の役割を…。けれども、天から授けられたこの子によって、益々強い信仰と豊かな愛をひらくようになるでしょう。

やがて二人は、自分達に与えられた特別の神のおぼしめしを悟るようになるでしょう。神から授けられた、この子を育てる事によって、柔和で穏やかなこの尊い授かりものこそ天から授かった特別の子どもである事を」

出典facebook投稿より

涙がこぼれた。これまでいかに思い違いをし、汚い心を持っていたか痛感した。彼らは邪魔者でも、迷惑な存在でもない。尊い存在なのだ。

そして思うようになった。「もし障害児がうまれてきても、その子とともに歩もう。その子を愛そう」

昨年、長女が障害児と判定された。確かにショックもあったが、安らぎがあった。不思議なくらい落ち着いていた。 

聖書に次の言葉がある。「からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならない」弱い存在こそ尊いというのだ。

ある牧師がここからメッセージを語った。

「家庭の中に弱い存在がいると、その家庭は健全になります。本当に大切な事を考え、大事なものを見つめ、人と比較してではなく、その子をその子として見つめます。競争社会の今日において『ナンバー1』ではなく『オンリー1』としての価値を見いだすようになります。弱さの尊さを聖書は語っています。」

家庭に病気や障害を持った人がいると、何かのタタリとか、バチが当たったとか言われることもある。そこには心の奥底でその人を否定している思いがないだろうか。その人は悪しき存在なのだろうか?タタリやバチの結果なのだろうか?確かに療育は重い。だがその人は、かけがえのない大切な存在であるはずだ。彼らこそ尊いという聖書の言葉に私は惹かれる。

障害を否定するのでもなく、また単に受け止めるだけでもなく、その存在こそ尊いと誇れる社会、そうなればと心から思う。

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