※記事内で紹介する画像や文章には、一部刺激的な表現・内容が含まれます。

時代は1940年。欧州各地で国同士の争いが続いていた時

非情な惨劇が生まれた場所

出典 http://www.tripadvisor.jp

アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所。

この名前を聞いて、ピン。と来る方もいると思います。

現ポーランド共和国南部に位置する、オシフィエンチム市に、アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所が存在します。

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所は、ドイツが第二次世界大戦中に国家をあげて推進した人種差別的な抑圧政策により、最大級の惨劇が生まれたとされる強制収容所である。

出典 http://ja.wikipedia.org

今から70年前に旧ソ連軍が開放し、悲しい惨劇は収束したが、1940〜’45年の5年間もの間、アウシュビッツ・ビルケナウ収容所に130万人連行され、内、110万人がここで命を落としています。

アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所で行われていたこと

連行に使われていた車両

出典 http://www.tripadvisor.jp

被収容者達には移住と伝え、外の光も入らない貨物列車に押し込められ、連行されていたと言われています。

連行された被収容者達の荷物を全て没収し、「選別」という行為が行われていました。

選別とは「労働者」「人体実験の検体」「価値なし」などと分けられていました。

75%もの人が「価値なし」と判断され、そのまま何の記録も残されぬままガス室に移動させられました。

その多くが女性、子供、老人であったとされています。

出典 http://ameblo.jp

価値なしと判断された行く先

シャワーを浴びると伝え、衣服を脱がされ集団でガス室に移動となります。

第一収容所ガス室内部

出典 http://gigazine.net

空気に触れると蒸発して窒息させるというガス缶を用いて行われていたと言われています。
フェイクでシャワーの蛇口まであったそうです。

労働者と判断された行く先

労働者に分けられた被収容者達には囚人番号の刺青を施し、一日何十時間にも及ぶ労働を課せられていたそうです。アウシュビッツ強制収容所の後にできたビルケナウ強制収容所を建設したのも被収容者達です。

アウシュビッツ強制収容所入口

出典 http://st1215.hatenadiary.jp

ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)と記されいる。よく見ると「B」の文字が逆さまなっており、被収容者達の小さな抵抗だと言われていたり、当時は逆さの書体が流行ったとも言われており、諸説ある。

検体と判断された行く先

検体に分けられた被収容者達は、医学や産業などの材料にされたといいます。

身体に大きなキズを付け、傷口を治す実験・移植実験、麻酔なんていう物はなく、また、髪の毛で布など作ったりと、想像もできないことばかりです。

氷水に囚人を浸して凍傷を負わせ、治療方法を研究する実験。東部戦線のドイツ兵のために。

出典 http://wolf.adolf45d.com

食事も満足とは言えないものだった

朝食・昼食・夕食

出典 http://gigazine.net

左上が朝食、コーヒーと言われる液体のみ。

右が昼食、傷んだ野菜のスープのみ。

左下が夕食、パン・バターのみ。

被収容者同士での食料の奪い合いが頻繁に起こっていたと言われています。栄養不足の被収容者達が抗う術がないのは言うまでもありません。

心理的に恐怖を与え、被収容者をコントロールする

アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所の監理・警備はおよそ7千人で行われており、被収容者達は多い時で10万人を超えました。

被収容者の中にも抵抗組織を形成していたと記録がありますが、大きな暴動が起きなかった理由として、懲罰を課し、連帯責任や見せしめ等を行い、膨大な被収容者を恐怖でコントロールしていたと言われています。

威圧的な監視塔

出典 http://adolf45d.client.jp

90cm×90cmの狭いスペースに4人を押し込む「立ち牢」や、一切の水・食料を与えない「飢餓牢」は、体力を確実に消耗させ、死に至らしめる。永続的に続くかのような苦痛と絶望が介在する懲罰の存在は、被収容者たちに計り知れない恐怖を与えたと考えられる。

出典 http://ja.wikipedia.org

出典 http://gigazine.net

抵抗組織を壁に向かい合わせ、銃殺されていたと言われる。

アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所から生還した人

1945年に旧ソ連により開放されてからアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所は毎年追悼式典が開かれる。2015年では70週年を迎える。

生存者のソフィア・ポスムイシ(Zofia Posmysz)さん、ユゼフ・パチンスキ(Jozef Paczynski)さんは、こう語っています。

「鉄条網に引っかかった遺体を幾つも見た。夜になると、バラックから若い女性たちが出てきて、鉄条網に身を投げた。恐ろしい光景だった」

「つんざくような叫び声で目を覚ましたものです」と話すポスムイシさんの左腕には、今も囚人番号「7566」の入れ墨が残っている。

出典 http://www.afpbb.com

バラック=収容所

張り巡らされた鉄条網

出典 http://gigazine.net

220V以上の電流が流されていたと言われる。

■「集団で歩くときは常に真ん中に」

ポスムイシさんもパチンスキさんも、19歳で収容所へ送られた。2人が生還できたのは、まだ若く、そして収容所で生き延びる方法を素早く学んだからだった。

「生き延びる方法を覚えた。集団で歩くときには、最前列や両端にならないよう気を付けるのが肝心だった。常に集団の真ん中の方にいるようにして、犬や看守、囚人を殴って来るカポ(監視役の囚人)たちから離れていなければならない」「何としてでも、懲罰を受けるような目に遭わないようにすることが基本だった」(ポスムイシさん)

出典 http://www.afpbb.com

当時の監視役も選ばれた被収容者が行っており、被収容者間にも立場の差があったようです。

ユゼス・パチンスキさん

出典 http://www.afpbb.com

アウシュビッツ収容所の所長に自らの散髪を命令されたと言う。“「私の手は震えた。しかし、命令は命令だ。仕事をしなければならなかった」と、パチンスキさんはAFPに語った。”
出典 http://www.afpbb.com/articles/-/3037740?pid=&page=3

現在では世界遺産に登録されている

1979年に悲劇の証拠であり、後世に語り継ぐべきものとして世界文化遺産として登録されています。

過去の惨劇を改めて深く考えさせられる場所として、毎年多くの観光者が訪れています。ただ、日本人観光者が少ないという現実もあります。


いかがでしょうか。アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所について、お伝えしてみました。

以前から知っていて、私は未だ訪れたことはありませんがいつか必ず現地に行ってみたいです。バックボーンが甚大で、深くお伝えすることはできませんが、ネットを通じて様々な記事を調べていると筆者の気持ちというのが伝わってきました。

この記事で、少しでも関心を持って頂ければと祈っています。

参考記事:世界一周写真館

2012年11月8日、ポーランド南部オシフィエンチム市郊外にある
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に行って来ました。
ここには年間約1万人の日本人が訪れるそうですが
隣国である韓国人、中国人に比べると非常に少ない数なのだそうです。
興味はあるが、行きたくてもなかなか行けない

この記事を書いたユーザー

NABE このユーザーの他の記事を見る

何事も信じれば叶うと思っているお気楽ライター。コレはイイ!と感じた事を共有できればいいなって思ってます!自分自身の興味があることをエネルギーに変えてたくさんの事に挑戦していきます!

権利侵害申告はこちら

Spotlightのライターなら1記事最大3000円もらえる!日本最大級メディアでライターデビューのチャンス